舞鶴のひとのおもてなし
1.
引揚港舞鶴
昭和20年(1945)9月28日、舞鶴の港は引き揚げの港となりました。その翌月の10月7日には今の韓国の釜山から 陸軍兵士を乗せた最初の引揚船が入りました。当時の舞鶴のひとたちの多くは、戦争が終わったばかりで食べ物も満足にありませんでした。しかし、困っている引揚者をみて各家庭から少しずつ芋や米、お茶などを持ちより、やっとの思いで満洲やシベリアから帰ることができた引揚者にふるまいました。
また、駅へ向かう引揚者を見かけると、「おかえりなさい!ご苦労さまでした!」「気を付けてお帰りください!」と声をかけ、大きく手を振り見送りました。
2.
舞鶴市民
のおもてなし
舞鶴の人たちは戦争で傷ついた引揚者にお茶や蒸かした芋をふるまって温かく迎えました。また、引揚援護局から列車の出発する駅までの道沿いには、舞鶴の人たちが集まり「おかえりなさい!」「ご苦労さまでした!」と声をかけて見送りました。こうした舞鶴の人々の優しさに触れた引揚者はみな涙を流して生きて日本へ帰ることができた喜びを感じることができました。
3.
引き揚げの母・田端ハナ
田端ハナさんは昭和20年(1945)10月7日の最初の引揚船「雲仙丸」から昭和33年(1958年)の最終引揚船「白山丸」まで、たくさんの引揚者を婦人団体の代表としてお迎えしました。お茶やふかし芋をふるまうアイデアを出した人で、舞鶴に上陸した多くの引揚者に心からのおもてなしをしました。また、引き揚げが終わった後は引き揚げの歴史を未来へ伝えるために引揚記念公園の建設や舞鶴引揚記念館の設立に力を注ぎました。
4.
木村千代子
木村千代子さんは華道の先生だったことから、ご主人の勤務先の引揚援護局より、引揚者のために草花を生けてもらえないかとお願いされ昭和33年(1958)の援護局の閉局まで草花を生け、時にはお茶をふるまって「おもてなし」をしました。引き揚げが終わった後も、外国で命を落とした人々のために、引揚記念公園などでお茶やお花を供えて供養をしました。
5. 岸壁
の母 端野いせ
岸壁の母とは、戦争が終わった後、戦地から息子が生きて帰ってくるのを港の岸壁で待っていたお母さんたちのことです。そうしたお母さんたちの気持
ちが昭和29年(1954)に「岸壁の母」という歌になって大ヒットしました。その歌のモデルとなったのが端野いせさんです。いせさんは、戦争が終わった後、行方がわからなくなった息子さんの新二さんの無事の帰りを待ち続けましたが、とうとう会うことができませんでした。
- 明治32年(1899)9月15日 石川県羽咋市に生まれ、北海道函館市へ移住
- 大正9年(1920)頃 船乗りだった清松さんと結婚
- 大正14年(1925)6月12日 長男:新二さん誕生
- 昭和4年
(1929)12
月頃 長女:栄子さん誕生
- 昭和5年(1930)9月12日 夫:清松さん死去
- 昭和6年(1931)1月13日 長女:栄子さん死去
- 昭和6年(1931)2月下旬 長男:新二さんと函館から東京へ引っ越す。服をつくる仕事や家政婦、工場の寮母などの仕事をしていた
- 昭和11年(1936) 東京都大田区大森へ引っ越す
- 昭和19年(1944)3月 長男:新二さん戦地へ行く
- 昭和20年(1945)8月15日頃 長男:新二さんは、戦友の証言により中華民国(当時)で戦死したとされる。戦争が終わった後、息子が生きて帰ると信じて舞鶴へ何度も足を運ぶ
- 昭和31年(1956) 東京都より、新二さんの戦死の知らせが届く しかし生きていることを信じて帰りを待つ
- 昭和56年(1981)7月1日 81歳で亡くなる
6.
岸壁の妻
戦地から夫の無事の帰りを港の岸壁で待っていた女性を“岸壁の妻”といいました。岸壁の母たちと同じく、大切なご主人の帰りをこどもを連れて遠くから探しにやってくる女性もたくさんいました。
7.
抑留者を救った大木英一
戦争が終わった後、息子さんの治雄さんがシベリアへ無理やり連れて行かれたことを知って、抑留された人たちを帰してもらえるように、大阪・梅田の駅前でたった一人で活動を始めました。たくさんの人たちの応援によって息子さんは日本へ帰ることができました。昭和23年(1948)8月に治雄さんは帰還することができましたが
抑留中の栄養不足のためすぐに亡くなりました。
8.
抑留者のメッセージを伝えた坂井仁一郎さん
昭和23年(1948)の夏のある日、坂井仁一郎さんは自宅でラジオを聞いていると、名前と住所を読み上げる放送を偶然耳にしました。なんとその放送はシベリアに抑留された人々が無事であることを知らせる放送だったのです。日本各地に住む、抑留者の帰りを待つ家族へ聞き取った放送の内容をはがきで知らせました。戦後、行方のわからなかった夫や息子が生きていることを知った家族は涙を流して喜び、坂井さんへお礼のはがきや手紙を送りました。
9. 在外父兄救出学生同盟
戦前まで満洲などで暮らしていた日本人が大学へいくために、親元を離れて大阪や東京などへ一人で渡ってきた大学生もたくさんいました。戦争が終わると、満洲などに暮らす両親と連絡がとれなくなり、不安な日々を送っていた大学生たちが満洲などから帰ってきた引揚者の人たちから情報を聞くために結成したのが“学生同盟”でした。学生同盟は引揚者のために怪我や病気の人の面倒をみたり、列車の乗り換え案内したり、引揚者の手助けもしました。
10. シベリアからやってきた
犬「クロ」
シベリアの収容所で日本人の抑留者が飼っていたメスの犬のことです。全身が黒かったためクロという名前がつけられました。とても人なつっこくて抑留者たちからはとても可愛がられていました。昭和31年(1956)12月24日早朝、シベリアからの最後の引揚船がナホトカ港を出発すると船を追いかけるように、流氷ただよう海へクロが飛び込みました。その後、船に乗せられ、シベリアで一緒に生活した仲間として日本へとやってきました。