引揚語り部養成講座(令和2年度募集分)が修了しました!

 

 令和3年6月26日(土)、引揚語り部養成講座修了式を開催しました。
 今回の講座は令和3年2~3月に開講予定でしたが、緊急事態宣言の発出等により、予定が大きく変更となり、受講生の皆様にはご迷惑をおかけしました。このような中、中学生・高校生11名を含む24名の方が講座を修了され、語り部として、新たなスタートをきられました。
 当館が引き揚げの史実と平和の尊さを語り継いでいく上で、語り部の皆様には大きな役割を果たして頂いており、体験者から受け取ったバトンを大切に繋いで頂いているのが、当講座を受講された皆様です。
 修了生の皆様の今後の活躍を期待しております。

~講座の様子~

~学芸員の担当講座~

            
              
              ~語り部実習~

 

           ~修了式(修了証書授与)~
~市長あいさつ~

抑留から交流へ! ~ウズベキスタン共和国との交流物語②~

舞鶴市は東京オリンピックに参加するウズベキスタンのホストタウンとして、スポーツや文化などの様々な分野で交流を続けてきています。

引き揚げが縁で結ばれた、ウズベキスタンと私たちの物語をご紹介させていただきます。

舞鶴港への引き揚げ

第二次世界大戦が終わった後、満州 (現・中国東北部)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されており、これらの方々の帰国事業 “引き揚げ”が開始され ました。呉をはじめ順次18港の引揚港が全国に次々と設置され、舞鶴もその役割を担うこととなり、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となりました。

ナボイ劇場を建設した455人の日本人抑留者のほとんどが、舞鶴港に引き揚げてこられました。船から見える緑の山々や出迎えの着物姿の日本人を見て涙を流されたそうです。「第4ラーゲル」の隊長 であった永田行夫さん(大尉)も舞鶴港に引き揚げてこられました。

永田さんは、日本に帰国後も第4ラーゲルの抑留者と連絡が取れるように、名簿を作成しようとされました。普通なら収容所で紙に名前、住所を書いて持って帰れば良いのですが、この時代は違いました。もしその名簿がソ連兵に見つかれば、廃棄されるか、最悪の場合何かの暗号か何かに間違えられ、スパイとして再び収容所送りになるかもしれません。永田さんは、455名の名前・住所・番地をすべて暗記して日本に帰国。家族と会うと暗記した名前を忘れてしまうのではと考えた永田さんは、一刻も早く、自宅に帰りたい気持ちを抑えて、上陸の後、舞鶴に宿泊し、名簿として紙に書き出されたそうです。

 

タシケント第4ラーゲル会結成

その名簿をもとに「タシケント第4ラーゲル会」が結成され、昭和24年から平成21年まで61回にわたって毎年1回交流会が開かれ、平成3年には引揚記念館に「第4ラーゲル会」の桜の記念植樹を残していただいています。

また、第4ラーゲル会のメンバーの新家苞(にいの み しげる)さんからは、抑留当時の衣服等の資料やウズベ キスタンへの墓参の際に入手されたナボイ劇場のれんがなど、貴重な資料をご寄贈いただきました。

れんがは現在、赤れんが博物館の「日本人とナボイ劇場」のコーナーに展示してあります。 しかし、今では永田さんを始めとした「第4ラーゲル会」の方は大部分がお亡くなりになっておられ、史実をお伺いできる方も数人となっておられます。

 抑留者が残した名誉

1966年、ウズベキスタンの首都タシケントは約70%の住宅や建築物が倒壊する大地震に見舞われました。大きな被害が出るなか、ナボイ劇場をはじめ日本人抑留者が建築に携わった建物の多くは地震に耐え、ほぼ無傷で立ち続け、家を失った人達の避難所として活用されるなど、 多くの人の命を救いました。

現在でもナボイ劇場はもちろん、日本人がつくった発電所や建物が現役で使われており、今でもウズベキスタンでは「地震が来たら、日本人がつくった建物に逃げろ!」と語り継がれているそうです。

このように、本来なら日本への帰国していたであろうなか、過酷な環境下での強制労働、帰国の見込みも立たない抑留という絶望的な状況の中でも、日本人抑留者たちは実直・勤勉に仕事に励み、たとえ日本に帰れなくてもウズベキスタン国民に手本とされるような行動をとり、大地震でも倒れない建物を建てることで、自分たちの名誉を残そうとしました。

また、ウズベキスタンの市民から受けた恩に対しては精一杯の感謝を伝えようとしました。 戦後、この地で強制労働に従事した抑留者一人ひとりの行動が、ウズベキスタンの人々に深い感銘を残し、日本人のイメージとなって、今の日本に対する友好的な気持ちの形成につながっています。

 

 

 

抑留から交流へ! ~ウズベキスタン共和国との交流物語①~

舞鶴市は東京オリンピックに参加するウズベキスタンのホストタウンとして、スポーツや文化などの様々な分野で交流を続けてきています。

交流のきっかけとなったのは、平成28年1月に、日本人抑留者資料館長の方が舞鶴に来て頂いたことでした。不思議な縁で結ばれた、ウズベキスタンと私たちの物語をご紹介させていただきます。

ウズベキスタンってどんな国?

ウズベキスタンは日本からおよそ 6,400㎞離れた中央アジアに 位置しており、面積は日本のおよそ1.2倍、人口は約3,000万人、1991年にソビエト連邦(以降、 ソ連)崩壊に伴い独立した国で、世界に2つしかない「二重内陸国」です。海へと出るためには国を2つ越える 必要があります。(もう一つはリヒテ ンシュタイン)

そんな、ウズベキスタンには「日本人のようになりなさい」という言葉が語り継がれています。なぜ日本から遠く離れた縁もゆかりもないような国で、「日 本人のようになりなさい」という言葉が語り継がれているのでしょうか。 親日意識は「シベリア抑留と海外引揚」から。その理由は「シベリア抑留と海外引揚」にありました。  

親日意識は「シベリア抑留と海外引揚」から

今から約76年前、第2次世界大戦末期のことです。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏しましたが、8月23日までソ連軍の侵攻は続き、ソ連は、その戦闘の中で捕虜となった人々を各地に抑留し、強制労働に従事させました。「シベリア抑留」です。

抑留者は、シベリアや中央アジアなど各地に送られ、森林伐採や道路整 備、建物建築といった様々な重労働を課せられました。 抑留地の一つであるウズベキスタンには約25,000 人が送られました。 ウズベキスタンは雨が少なく乾燥し、 夏は最高気温が40度、冬は最低気温 がマイナス20度にもなる、大変厳しい環境の国で、抑留者は水力発電所や学 校などの建設に従事しました。

現在で もオペラやバレエの上演に使用され、 ウズベキスタンの紙幣にも描かれているほど有名な「ナボイ劇場」も1945~46年にかけて457人の抑留者によって建造されました。

ナボイ劇場を建設した抑留者たちは、「第4ラーゲル」と呼ばれる収容所に収容されていましたが、近くに住んでいた人によると「日本人抑留者は朝、整然と隊列を組んで出て、労働が終わった夕方にはまた整然と隊列を組んで帰ってきていた。朝、出かけるときはいつも決まった時間に通るので、彼らの歩く下駄の音を目覚まし時計代わりにしていた人もいるほどだった」 またある人は「彼らの食事は1日300グラムの黒パンと薄いスープだけだった。その黒パンですら労働成績が悪いと減らされることがあったのだとか。ある時、大変な労働でおなかがすいているだろうからと、収容所の柵の間からパンと果物を差し入れたところ、数日後、同じ場所に手作りの木のおもちゃが置かれていた。そのことを母親に伝えると母親にこう言われた。『日本人は勤勉で礼儀正しい。物を作るのも上手いうえに、恩を忘れない人だ。あなたも日本人のようになりなさい。』と。

また、ウズベキスタンの前大統領である故カリモフ氏は、生前こんなことを仰っていたそうです。「子どもの頃、母親に連れられて、毎週末日本人 の収容所に行った。そして、そのたびに同じことを言われた。『息子よ、ごらん、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。3 人が見ていなくても働く。おまえも大きくなったら、日本人と同じように人が見ていなくても働く人間に必ずなりなさい。』そんな言いつけを守って育ち、今では大統領になれた。」 と。

ナボイ劇場の建設に携わった日本人抑留者457人の内、2人が事故などによって現地で亡くなったそうです。

 

 

桜SAKURA動画を公開中!

 引揚記念公園の桜は、ソメイヨシノ、八重桜、枝垂れ桜が次々に咲き誇り、長い期間、桜SAKURAをお楽しみ頂くことができます。              

八重桜の見ごろは、例年4月20日前後です。

 

「私たちが伝える記憶」~戦争体験の継承をテーマとした動画~

舞鶴引揚記念館では国内外の施設と連携しながら、引き揚げ及びシベリア抑留の史実や平和の願いを発信しており、戦後75年となる2020年、平和祈念展示資料館(東京都・新宿区)と戦争体験の継承をテーマにした映像作品を共同で企画・制作しました。

戦争体験の継承が難しくなっている今、若い世代の人たちにシベリア抑留を知ってもらいたい、体験者の記憶を伝えることの大切さを感じて頂ければと思います。

英語版引揚紙芝居『シベリアからやって来たクロ』が完成

 舞鶴引揚記念館では収蔵資料のユネスコ世界記憶遺産登録を契機として、引き揚げ及びシベリア抑留の史実や平和の願いを国内外に広く発信するため、海外の関係都市との調査・交流や「ICOM(国際博物館会議)京都大会2019」関連事業などを通じて海外への発信にも積極的に取り組んでいます。

この度、海外発信の取り組みの一環として、京都府立東舞鶴高校(校長 塩尻徹)と連携し作成を進めてきた英語版引き揚げ紙芝居『シベリアからやって来たクロ』」が完成しました。ぜひ、ご覧くださいませ。

シベリアからやってきたクロ≫

  シベリアの収容所で日本人の抑留者が飼っていたメスの犬のことです。全身が黒かったためクロという名前がつけられました。とても人なつっこくて抑留者たちからはとても可愛がられていました。昭和31年(1956)12月24日早朝、シベリアからの最後の引揚船がナホトカ港を出発すると船を追いかけるように、流氷ただよう海へクロが飛び込みました。その後、船に乗せられ、シベリアで一緒に生活した仲間として日本へとやってきました

 

参加した東舞鶴高校生徒の視聴の様子    

~取材速報~ 【Japan Forward】

 
 舞鶴引揚記念館に収蔵されているシベリア抑留と引揚に関する資料。その史実を後世に伝えていく活動の中で、単なる「次世代への継承」でなく、「次世代による次世代への継承」という、若い高校生が積極的にその役割を担ってきていることを、世界で147万人以上がフォローしている英字WEBメディア「JAPAN Forward」のジャーナリスト、Arielle Busettoさんが取材に来られました。記事が掲載されたらまた報告します!
取材を受けてくれた東舞鶴高校の2年生
青いバスの前で、先生方

平和学習〈2021/3/10〉 【海上自衛隊第4術科学校 様来館】

 3月10日、海上自衛隊第4術科学校の皆さんが来館されました。海を就労、生活の場としている海上自衛官の仕事は、非常に高い専門性を要求されることから様々な「職種」毎に業務を分業化されているようで、第4術科学校では「経理」「補給」などの業務について専門的に学ばれているそうです。今回はDVDを視聴し、NPO法人舞鶴・引揚語りの会からの説明を聞いた後、館内を見学されました。ご来館ありがとうございました。
<参考>海上自衛隊第4術科学校 https://www.mod.go.jp/msdf/fourmss/
    【引揚記念館スタッフよりご挨拶】
       【館内を自由見学】

教育旅行〈2021/3/9〉 【同志社国際高等学校 様】

 3月9日、同志社国際高等学校の140名の生徒さんが来館されました。舞鶴引揚記念館にとって、2021年になって初めての教育旅行の団体のお迎えになりました。引揚体験者のお話を動画で聞いた後、NPO法人舞鶴・引揚語りの会の案内により館内を見学頂きました。ご来館ありがとうございました。
<参考>同志社国際中学校・高等学校   http://www.intnl.doshisha.ac.jp/

土日祝限定「語り部ツアー」開催中!

 皆様に大好評いただいております、「語り部ツアー」が3月から復活しました。引き揚げやシベリア抑留の史実や展示品に込められた想いをNPO法人舞鶴・引揚語りの会の語り部が紹介します。ぜひ、ご参加ください。
 ◆日時:毎週土・日曜、祝日 午前11時から約30分間
 ◆予約:不要(10時50分から展示室入り口前で受付)
 ◆料金:無料(入館料は必要です)