「舞鶴への生還  1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」

テーマ: シベリア抑留や引き揚げに関する資料

構 成: A「シベリア抑留体験の記録」

B「安否を気遣い帰還を願う日本の家族に関する資料」

C「引揚関連資料」

点 数: 570点

登録日: 平成27年(2015)10月10日

推薦書の概要:

「舞鶴への生還 -1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録-」は、第二次世界大戦の敗戦にともない日本帝国が崩壊する中で、ソ連領に抑留された約60万人から約80万人といわれる日本軍人と民間人たちの、筆舌に尽くしがたい抑留生活と日本本国への苦難に満ちた引き揚げの歴史を伝える資料である。彼らの本国への引き揚げは、終戦から11年を経た1956年に終了するが、ソ連はすでにドイツ人等の旧敵国側の軍人と民間人の抑留を同様に行っており、日本人の抑留もその一環としての同時代的意味を持つ歴史的出来事である。また抑留と引き揚げは、戦後の日本では、国民が戦争のない平和な世界を希求する上での大きな礎となった稀有な体験として、後世に語り継ぐべき大きな戦争の記憶となっている。

当該資料は、意に反して抑留された抑留者たちの困窮や絶望、生き抜く力、家族への思いや帰国への希望、そして彼らの帰国を待つ留守家族の家族愛と日本国民の同胞愛など、人類共通の普遍的主題を伝えるものである。公的記録が乏しい中、奇跡的に現存する当該資料は、第二次世界大戦後の悲惨な惨禍を生き抜いた、一人ひとりの人間性あふれるまさに稀有な、真正無二の世界が共有すべき貴重な遺産である。

登録資料リスト

分類 項目 資料内容 点数
Aシベリア抑留体験の記録 日記 抑留中の日々の様子などが書かれたもの 3
俘虜用郵便葉書(シベリアから日本宛) 抑留された人々から日本で待つ留守家族などに宛てたもの 189
手帳・メモ帳 収容所で一緒だった仲間の名前・連絡先などが書かれた手作りのもの 2
抑留体験画 抑留時のことが描かれたもの 91
新聞 ソ連で抑留者向けに収容所内で発行された新聞 21
名簿 シベリアで亡くなった仲間の名前・連絡先などが書かれたもの 4
写真 ハバロフスク第2収容所で撮影されたもの 2
B安否を気遣い帰還を願う日本の家族に関する資料 俘虜用郵便葉書(日本からシベリア宛) 日本で待つ留守家族などから抑留された人々に宛てたもの 21
日誌 留守家族が抑留中の夫を思い書いたもの 3
家計簿 留守家族の家計簿 1
アルバム 留守家族の写真を収めたもの 1
モスクワ放送の帰還情報に関する葉書類 偶然モスクワからのラジオ放送を聴き、抑留者の安否情報を留守家族に伝えた葉書の宛先不明で返送されてきたものとその安否情報の葉書を受取った留守家族からのお礼の葉書類 79
名簿 安否情報の葉書を受取り、お礼の葉書類を送った留守家族の住所などをまとめたもの 1
引揚援護局付の帰還者への手紙類 留守家族が引揚援護局へ送った帰還者に宛てたもの 15
安否に関するその他の手紙・葉書類 知人や先に帰還した人が、留守家族に抑留者の安否を尋ねたり、知らせたもの 18
C引揚関連資料 乗船者名簿一括 舞鶴港に入港した引揚船の乗船者名簿 24
引揚調査書類 引揚者の状況を調査したもの 3
書類 舞鶴市長が市民に宛てた回覧と舞鶴上陸地艦船乗組員の業務日誌 2
ポスター 入港前夜引揚者の為に帰国大演芸会を催した際に使用したもの 1
日誌 引揚船内でソ連の各収容所での体験を聞き取りしたもの 1
貼り紙 舞鶴市婦人会が出した歓迎の貼り紙 1
引揚証明書一括 引揚者に発行された証明書 83
冊子 引揚者に配布された引揚手続きや上陸後の援護などについて説明したもの 4
合計 570点

主な資料の概要

1. 白樺日誌

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白樺日誌 (140-0149-001)

本資料は、3年間の抑留生活とその間における故郷日本を想う気持ちを、和歌・俳句約200余首にしたためた記録である。ちなみに、和歌とは、古代から日本で行われている定型の歌で、五音と七音を基調とする「やまと歌」。平安時代以降は、主として五・七・五・七・七の形の短歌をいう。また、俳句とは、五・七・五の3句17音を定型とする短詩で、季語を入れることを原則とする。瀬野氏が和歌・俳句という表現方法を選んだ理由としては、いつ帰れるとも知れぬ抑留生活を送るなかで移りゆく現地の季節感を実感・意識し、望郷の念とだぶらせて記憶する方法として用いられたのではないかと思われる。

本資料の特徴の第一は、抑留生活の記憶の方法・表現として、五・七・五・七・七という和歌独特のリズムに乗せた感情表現を行っている点である。生活の実態や当時の感情を確かな記憶として留めるには、和歌の特徴を利用することが最適であったと思われる。また、記憶を確かに留めたというある種の確信によってもたらされる精神の安寧を大切に持ちつつ生活を送ることが、抑留生活の場において重要だったのではないかと考えられる。所属していた隊全体で、俳句の会あるいは文化活動(劇団の結成など)を行うことによって、抑留生活というある種の極限状態のなかにあっても、瀬野氏のみならず隊全体のレベルで心の支えを持ち続けることができたものと思われる。すなわち、句作などの文化活動には隊員たちにとっての娯楽的要素が多分にあり、そのことが「日本を忘れない」という心情を醸成することへと繋がり、心の支えとなっていたと評価できる。肉親や家族とりわけ母親への強い親愛の情が、これら俳句や和歌においてしばしば吐露されている。さらなる特徴は、形態と作成過程とに認められる。題名「白樺日誌」という表題に示されているとおり、本資料は、紙ではなく白樺の皮に書かれたものである。白樺の皮をノート代わりにし、缶詰の空き缶を切ってペン先を作り、煤をインク代わりにして書き留めるという形態と作成過程に特殊性が認められるのである。同時にそうした卓抜した着想に、本資料の希少性が認められる。

本資料は、一種の文学作品の要素も含まれており、文学の創造活動が作者の生きる力や希望となっていたと考えられることから、文化や芸術の普遍性を伺うことのできる資料としても高い価値が認められる

(白樺日誌に記されている一首)

玉子酒 風邪によろしと母上は 手づから我に造りくれしか

 

十二月二日、医務室で静養するまでもなかろうから、班内に帰ってはどうかという軍医さんのお話で、長らく世話になった諸氏に謝辞を述べて、静養室を出た。

病は気からというが、外科の患者でも気持ちに左右される節がある。

退室と決定しただけで既に快復した感がする。包帯は当分とれないらしい。

用心の為に、たとえ傷が塞がってもすぐにはとらないほうがよいのだと、すべて善意に解して、元気に食堂で戦友と何日振りかの食事をした。医務室で病人ばかりで黙々と食事をとるのとは違い、明るいひとときであった。

 

(白樺日誌に記されている一首)

幽囚の 身こそ悲しき遺言も あらずて異郷に逝く人多し

 

昭和廿一年一月五日、私は栄養失調で入院を命じられた。

同じ日に私と一緒に入院したものは軍医に付き添われて病院まで歩いて行った。

高熱患者は食事が進まない。百瓦【グラム】のパンさえ食べない者もある。私の知っている兵隊の中でも、間もなく死んでしまった。(この句は白樺日誌に記されている一首)死体は解剖に付せられて埋葬されるのであるが、毎朝今日は何人死んだと当時肺炎患者で死ぬものがずいぶん多かった。

 2. 北田利関係文書

 

本資料は、ソ連に捕虜として抑留された北田利氏からの日本在住留守家族宛の俘虜郵便、および夫の帰国を待つ利氏の妻・はま子氏の日誌を綴った手帳3冊(「妻の記録」第一~三)を主とした抑留関係記録である。

本資料は、北田利氏が日本の留守家族にあてた俘虜用郵便、および利氏の妻であるはま氏の日誌(手帳3冊)から成るものであり、遠く離れた抑留地と日本との間で、互いに家族を思いやる気持ちに満ち溢れている記録である。はま子氏の日誌の記載期間は、終戦後から1956(昭和31)年頃にかけてである。利氏は、抑留生活を長く送ることとなり、引き揚げが実現したのも最晩期のことであった。

本資料の特徴は、なかなか利氏の引き揚げが実現しないなかで、留守家族が利氏の安否を気遣う様子が、その日常生活とともに鮮明に描かれている点にある。利氏からの葉書が届けられた時の家族3人の喜ぶ様子が、親子の会話とともに生き生きと描写されている。


他方、お互いにやり取りした葉書の全てが届けられたわけではなかったようで、折角送った葉書の未着を知った時の家族の落胆ぶりや憤りも、臨場感を伴って書かれている。家族愛、夫婦愛の深さと尊さがうかがえる資料である。

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北田利氏 日本とシベリアでやりとりした葉書 (090-0022-014)

 九、二八、一三時(1953年9月28日13時)此の十一日写真を受取りました。

みんな健康であるのは非常な喜びです。同時に少しでも生活を豊かにする様に祈ります。物質に拘りのないことです。連絡が重なるにつれ事情が分かり段々安心して来ます。新しくこちらから言うことはありません。私は健康です。体重五七キロ前後。

邦子、明子、潮干がりに行ったり、山に行ったり、映画に行ったり、修学旅行に行ったり、なかなか楽しいですね。こちらでは普通週に一、二回映画があります。今迄神経がチクチクするので見ませんでしたが、最近四、五回続けて見ています。秋になって日本では色々果物が出ることしょう。「いちご」の味も柿のおいしさも忘れてしまいました。さようなら。

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北田利氏 日本とシベリアでやりとりした葉書(090-0022-058)

十月十日の御返信です。十二月一日。私達の生活の中で三人でよろこび合えるのがあなたからのお元気なお便りです。又十年振りであなたのお写真を受取りました。よろこびは何物にもかえ難いものでした。野溝さんへもお礼を出しました。

これから度々この様なことのあることを願うより今度こそほんとうにあなたが私達の家へお帰りになられます事を一日も早かれと願って止みません。写真は朝日新聞社からも一枚持って来てくれましたので名古屋へ送りました。山本さん内海さんの奥さんともよく逢っています。(はま子)

 

神戸では私丈が写真を貰うことが出来ました。お父様、今度のお便りは、本当に明るく、私の心もぱーっと楽しくなるようでした。お父様のお元気なお姿がみられて、こんなにうれしいことはありません。今もラジオで、今度帰ってこられる人々の喜びの留守家族の声を放送しています。お父様の番が一日も早く来ることを待っています。あと一ヶ月でお正月です。ほんとに、月日のたつのが早いのに驚いています。

又冬休みには、そごう百貨店へアルバイトに行きたいと思って昨日面接に行きました。厳しい寒さに、負けないようにお体をお大切にして下さい。(邦子)

 

私は、めったに風邪をひかないのですが十日前熱をだして寝ましたが、お叔父様にペニシリンをうってもらったので三日ぐらいでケロリとなおってしまいました。(明子)

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妻の記録(090-0699-000  第1巻P11)

五月三日日曜日、神中の子供達と一緒に邦子、明子を連れて茂正さんが遊覧バスに乗せて六甲山再度山まで行ったそうな。帰りはタクシーで子供達楽しかった話を私にきかせている時、神中尭子ちゃんが遠くで「イイモノガアルヨ」とハガキをひらひらさせた。「ワッ!!」と三人が声を挙げた。「お父様から!」と邦子がかけ出して貰らって来る。私と明子が両方からのぞくのに、邦子一人で読んでなかなか渡してくれない。今度こそ私達が十一月に書いて出したハガキが届いていてくれたのだと思い込んでいたのにやっぱり届いていないらしい。その上、主人は先便が届いていないかも知れないと心配して同じ事を書いていられる。一同ガッカリして悲しくなった!折角のお便りなのに物足らなくて皆寂しいのである。同時に今度は腹が立って来た。何と云う事だ!ソ連は!文通させてやると恩に着せた事を云いながら往復はがきを捕虜達に渡しながら、こちらでよろこんで書いた返信は捕虜に渡さない。気の毒な捕虜可愛想なあなた。どんなに私達の返信と、言葉を生活を待って知りたがって居られる事でしょうに。それさえたった一ヶ月一度の小さな紙切れにかかれる妻と子の言葉さえソ連は裂かうと思っているのか?終戦以来八年も帰さない何とも口で云えない腹立たしい事なのに、でも今は私達のはがきを渡してくれないと云う事の方が私達にはもっともっと残酷に思え、腹の立つ事なのである。邦子はどうせお父様のところに届かないのなら今度のはがきにソ連の悪口と、うらみとを一杯書き立ててやろうかと涙をためて口惜しがっている。私もほんとうに今度はそうしようかと思って見た。でも或は、今度は届けてくれるかも知れないのだと思いかえして同じ文を書かぬ様にそれでも何か連絡の取れた便りを書きたいと頭を使うのだけれど、なかなかうまく書けない。

 3.俘虜用郵便葉書

俘虜用郵便葉書は往復葉書で抑留された人々が日本で待つ家族と許された唯一の通信手段であった。抑留者と日本で待つ家族は一日も早く再会することを願いながら、その願いが叶わぬ不安な日々を送っていた。そうした中で、終戦から約1年が経過した頃にソ連側から日本へ俘虜用郵便葉書を出すことが許された。しかし、ソ連側で検閲があったため葉書にはつらい労働やお腹を満たすことのない粗末な食糧事情、氷点下を下回る冬の厳しい寒さなど苦しい生活を書くことは許されず、葉書に書く内容は大きく制限された。また、日本語が堪能でない検閲官のいた収容所では、すべて簡易な文字であるカタカナ書きにすることが定められていた。それでも抑留者達は可能な限りにこの通信の機会を利用し、日本で彼らの帰りを待つ家族にその生存を伝えた。それと同時に日本の家族からの返信を心待ちにして、それをシベリアでのつらい抑留生活を乗り越える心の支えにしていた

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俘虜用郵便葉書(090-0115-000)

前略その後皆様にはお変わりありませんか。お伺いいたします。お陰にて元気に暮らしておりますからご安心ください。キヨコ姉さんのほうは、みな変わりないですか。お父さんのほうの様子が知りたいです。その後のご苦労を推察してはいつも故郷の空を仰ぎ見るのです。何卒お身体は大事に帰るまで元気でいて下さい。皆々様によろしく。
では後便にて。さようなら。

ユキヲより

4. 手帳・メモ帳

本資料は、抑留生活を送る中、日々の想いや出来事などを記しているほか、収容所で戦争捕虜として辛苦をともにした仲間の名前と帰郷先の住所が記録されており、それら名前や住所は、先に帰国したものが日本で帰りを待つ家族に安否を伝えることを目的としていた。本資料は、収容所での日常的な持ち物検査、または帰国直前の持ち物検査で没収を免れるために、手のひらに乗るほどに小さく作成されており、その材料は段ボールや医薬品の包装紙、衣服の切れ端など様々なものが用いられている。また、小さく作成することによって靴の中や衣服に縫い付けて隠し持ち日常的な持ち物検査や帰国直前の持ち物検査での没収を免れた。さらに、帰国後にはGHQによる持ち物検査をも潜り抜け、奇跡的に現代まで伝えることができた。

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手作りのメモ帳 (140-0706-000)

5. 抑留体験画

 

[抑留中に描かれた記録画]

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スケッチブック 安田清一氏 (031-0513-000)

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(031-0513-000)                     (031-0513-000)

 

安田氏は昭和23年(1948)にソ連側からメーデーの様子を描くよう指示があり、その時に受け取った2冊のスケッチブックの内の1冊と絵具や筆を貰い受け個人的に収容所の様子などを描いた。抑留中に労働の様子や収容所の様子を描いた記録画としては非常に稀有のものであり、ソ連による没収を免れ奇跡的に日本へ持ち帰ることができた。

 

 

[帰国直後に描かれた記録画]

わが青春の浪漫抄 木内信夫氏 ---
わが青春の浪漫抄 木内信夫氏

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(031-0156-007)            (031-0156-007)

 

木内氏の記録絵画には、過酷な抑留生活だけではなくドイツ人など他国の捕虜兵士やロシア人と一緒に歌を歌う交流の様子が描かれている。木内氏は帰国直後の記憶が鮮明な内に抑留生活を絵画にして記録しており、帰国直後の記録画としては他に類がなく希少性が高い。

[抑留から帰国まで時系列に描かれた記録画]

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舞鶴港 羽根田光雄氏 (031-0228-001)

出迎えの人々 (031-0230-001) 
出迎えの人々 (031-0230-001)
茶の接待 (031-0232-002)
茶の接待 (031-0232-002)

 

羽根田氏の記録絵画は、ソ連領へ強制連行される場面から日本へ帰還するまでの様子を時系列に沿って記録した絵画である。それぞれの絵画には詳細な説明書きがされており、一つ一つの場面を詳細に知ることのできる文字情報と併せた記録画としては希少性が高い。

 

6. 坂井仁一郎氏による抑留者安否確認活動関係資料

坂井仁一郎氏(さかい・にいちろう、1923〈大正12〉年4月7日生、大阪府出身)が1948(昭和23年)年6月~8月に、大阪府北河内郡門真町(現門真市)の自宅で旧ソ連の国営ラジオ放送「モスクワ日本語放送」を偶然受信し、聞き取ったシベリア抑留者の安否情報を、留守家族に葉書で伝えた活動記録。主な資料は、坂井氏が留守家族に宛てた葉書(ただし宛先不明で返送されてきたもの)と安否情報を得た留守家族からの感謝を伝える手紙・葉書類。

本資料は、坂井氏が上記のような状況下で1948年の3か月間に受信した「モスクワ日本語放送」の内容を、そのまま「聞き捨てならない」という強い責務に駆られるなかで行われた、個人の献身的な意志に基づく活動記録である。

実際に坂井氏が投函した葉書は、700通余り、その内約半数は宛先不明で返送されてきたといわれる。また、留守家族から坂井氏宛に送られた、謝意を伝える手紙・葉書は、約180通に及ぶ。

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坂井氏が送った安否を伝えた葉(090-0039-036)

前略 突然のお葉書を差し上げる失礼をお許し下さい。さて昨7月1日午後12時のモスクワからの放送は抑留者通信としてナカガワ ハロウ様からの貴殿への『元気で近い帰国を待っています。こちらも御無事でお過ごし下さい。皆様によろしく』とのお便りを放送していましたからお伝え致します。もしお心当たりがあれば幸甚、なければそれも結構です。お破り捨て下さい。お名前は音訳ですから、それに稍(やや)聞き取り難いので誤りあるやも短(し)れません。右念のためご通知まで。 草々

昭和23年(1948)7月2日
大阪府北河内郡門真町 松下電器産業株式会社内

坂井 仁一郎

 

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坂井氏に寄せられたお礼の葉書(090-0039-079)

 

お手紙喜こび拝見致しました。

三人の子供をば亡く也財産を失い、主人は生死不明、一人淋しい淋しい、どん底生活の中に、貴方様からの暖いお便り、どんなに喜こんだ事か、御想像下さい。目のさめた思いです。主人からは十五日電報を受取り、十八日朝、六時、興津下車、無事帰国致しました。唯々、夢の様です。この喜び誰にわかりましょう。今、東京の姉の元に行きました。死を超へた収容生活、もう何をしても苦しくないと言って居ります。主人と共々、厚く厚くお礼申し上げます。

かしこ

 

【歴史的背景(1):引き揚げのまち・舞鶴】

 

舞鶴は、明治34(1901)年の舞鶴鎮守府の開庁以来、日本海側で唯一の軍港都市として発展してきました。

昭和20(1945)年、第二次世界大戦の敗戦に伴い、海外諸地域に残された約660万人の日本の軍人・軍属と民間人を速やかに日本に帰国させる“引揚事業”が、国の事業として開始することになりました。海外からの引揚者を受け入れるために、舞鶴港をはじめ、呉・佐世保・博多など全国10カ所の港を引揚港に指定し、引き揚げを支援する引揚援護局を設置しました。

舞鶴港は、旧ソ連や朝鮮半島、旧満州(現・中国黒龍江省など)からの復員や引揚者を、昭和20(1945)年10月7日、韓国・釜山からの最初の引揚船の入港から昭和33(1958)年9月まで、13年間にわたって約66万人と遺骨1万6,000余柱を受け入れてきました。特に、昭和25(1950)年以降、舞鶴港が日本で唯一の引揚港となり、日本人の引き揚げの記憶を象徴する港となりました。

 

<引揚船「高砂丸」>
<引揚船「高砂丸」>

舞鶴港は、日本海を隔てソ連と隣接する地理的位置にもあり、ソ連・ナホトカ港からの引揚者を数多く受け入れ、最終的に舞鶴港への引揚者総数約66万人のうち、ソ連領からは全体の約7割近くになる約46万人を受け入れました。
そのため舞鶴引揚記念館(昭和63年開館)には、特に、全国のシベリア抑留体験者から多くの関連資料が寄贈され、所蔵されています。

 

【歴史的背景(2):再会と再出発のまち・舞鶴】

昭和20(1945)年、軍港だった舞鶴港が一転して引揚港に指定されて以来、舞鶴市では引揚船が入港するたびに、湾内定期船や漁船などで出迎え、小旗を振るなどして心から歓迎しました。

 

また、筆舌に尽くしがたい苦労の末、帰国され心身ともに疲弊した引揚者を慰めようと、慰問やお茶の接待、芋をふかしたふるまいなど、心づくしでお迎えしたまちの歴史があります。

 

引揚船の乗船人数は概ね2,000人~3,000人で、多い日には1日に4隻が入港しました。引揚船にランチ(小型船)が横づけされ、引揚者はこれに乗り換えて平桟橋(たいらさんばし)に上陸します。平桟橋は、引揚者にとって夢にまでみた祖国への第一歩をしるしたところであり、肉親などとの感激の“再会の場”となりました。

 

このような舞鶴港での引き揚げの様子、肉親との再会、今だ帰らぬわが子や夫を待つ夫人の姿が、いつしか「岸壁の母」や「岸壁の妻」といわれ、歌謡曲や映画になって人々の涙を誘いました。

<引揚者を待つ家族>
<引揚者を待つ家族>
<家族を探す人々の様子>
<家族を探す人々の様子>

 

【登録目的:戦後70年、薄れゆく引き揚げの記憶舞鶴から世界に語り継ぐ】

昭和33(1958)年11月、引揚事業の完了を受けて舞鶴地方引揚援護局の閉局に伴い、早くから引き揚げの記憶を後世に伝えるための記念碑の建設などが要望され、昭和45(1970)年3月に「引揚記念公園」を開設。その後、引揚者の第一歩となった橋が設置されていた平(たいら)地区を見下ろす丘に「ああ母なる国の碑」「異国の丘 岸壁の母の歌碑」「望郷慰霊の碑」が建立しました。

 

そして、引き揚げ事業終了から30年の節目の年にあたる昭和63(1988)年4月、シベリア抑留体験者をはじめ、市内外の多くの方々の支援を受け、「年々遠ざかりつつある戦争や引き揚げの史実を語り継ぎ、平和の尊さ、平和の祈りを発信する」ことを目的に、引揚記念公園内に「舞鶴引揚記念館」が開館しました。

 

さらに、平成6(1994)年には、かつて約66万人の引揚者を出迎えた「平桟橋」があった場所に「平引揚桟橋」を復元しました。

 

シベリア抑留と引き揚げは、第二次世界大戦の敗戦と日本帝国の崩壊に伴う混乱の中で起こった事象であるために、公式文書の現存がかなり乏しい状況にあります。

そうした資料状況を補い、舞鶴引揚記念館が所蔵する「舞鶴への生還 -1945~1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録-」は、戦争がもたらした引き揚げという惨禍を生き抜いた一人ひとりの人間性あふれる真正の記録なのです。

 

しかし、戦後70年近く経ち、引揚者の高齢化が目立ち、生存している方も少なくなってきた現在、戦争を知らない世代の増加と共に、引き揚げの史実は“過去の出来事”になりつつあります。

 

そこで舞鶴市は、シベリア抑留者や引揚者が命と共に奇跡的に持ち帰ってきた貴重な資料を、末永く次世代を担う子どもたちに継承し、平和の尊さを一人でも多くの方に発信していくことを目的に「ユネスコ世界記憶遺産」への登録を目指すこととなり、戦後70年にあたる平成27(2015)年10月10日登録されました。

【世界平和に貢献ロシア・ナホトカとの友好交流の歴史】

舞鶴市が受け入れた引揚船346隻の内、その7割はソ連方面からであり、ほとんどはソ連のナホトカ港を出港したものでした。舞鶴市とナホトカ市は、シベリア抑留者の帰国の際の「出港のまち」と「入港のまち」として、昭和20(1945)年から昭和31(1956)までの11年間にわたり、戦後の混乱の中、懸命にその使命を果たしました。

 

昭和31(1956)年、モスクワにおいて「日ソ共同宣言」が調印され、国交が回復された後から、引揚事業が縁となり、徐々に交流が始まりました。日本の引揚事業終了後のわずか3年後には、両市の文化、産業の相互発展、さらには両市の関係が日本海のみならず世界平和に貢献することを願い、昭和36(1961)年に姉妹都市を締結しました。

以後、交流は次代を担う青少年の交換など様々な分野で頻繁に行われ、友好の種は52年間という歳月を経て大きく成長し、友好を超える深い友情と信頼関係へと発展しています。

 

ナホトカ市においては平成24(2012)年に自主事業として、シベリア抑留者の日本人墓地跡を公園として整備し、史実を偲び後世へ伝える平和祈念施設としています。

 

史実は史実として後世に継承し、二度と繰り返してはならない戦争の悲劇と、平和の尊さを広く発信するという想いは両市の共通の願いです。戦争の末に発生したシベリア抑留や引き揚げという、相互にとって悲惨な歴史を乗り越え、半世紀を超える両市の友情は、日本ロシア両国、また世界平和に大きく貢献するものとして広く発信するべきものと確信しています。

 

平成25年、日本海側に面する日本の都市とロシア極東地域の都市の28市の市長らが一堂に会して、親善友好や経済協力について話し合う「第24回日ロ沿岸市長会議」を舞鶴市で開催し、開催市の多々見良三・舞鶴市長から「ユネスコ世界記憶遺産」への申請の経緯と趣旨を発言し理解を求め、会議は友好かつ平和的に成功を収めました。

 

【「ユネスコ世界記憶遺産」とは】

「ユネスコ世界記憶遺産」は、ユネスコ(国際教育科学文化機関)の三大遺産事業(ほかには「世界遺産」「無形文化遺産」)の一つで、世界の重要な記憶遺産の保護と振興を目的に、平成4(1992)年から開始されました。

 

文書や書物、楽譜、絵画、映画などの記録史料が対象となり、平成29年(2017)10月現在、世界で427件が登録されています。主なものには、「アンネ・フランクの日記」(オランダ)、「ベートーベンの手書きの楽譜」(ドイツ)などがあり、国内では現在、福岡県田川市の炭坑記録画「山本作兵衛コレクション」(田川市石炭・歴史博物館所蔵)や、「東寺百合文書」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)、「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館所蔵)など7件が登録されています。

 

審査は2年に1度行われ、推薦できる資料は1つの国につき2件までとされています。日本政府は平成25年5月に「東寺百合文書」(国宝)の推薦を決定。これによって国推薦2枠のうち1枠が決まり、残り1枠は地方推薦枠になりました。

 

 

主な審査基準は、次の通りです。

 

■真正性

記憶遺産の本質や出所(複写・模写・偽造品でないか)が確認されていること。

 

■世界的な重要性

他に代替えができないもので、その損失や悪化が人類の遺産にとって損失となるもの。一定期間にわたり、または世界の特定の文化圏において多大な影響を与えたもの。歴史上、プラスまたはマイナスの影響力を与えたものでなければならないこと。

 

【「舞鶴引揚記念館」の概要】

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名 称 舞鶴引揚記念館
所在地 京都府舞鶴市字平1584番地   TEL:0773-68-0836
施 設 引揚記念館(972.62㎡)、絵画美術品収蔵庫(125.13㎡)
目 的 年々遠ざかりつつある戦争や引き揚げの史実を語り継ぎ、平和の尊さ、平和の祈りを発信する
開館日 昭和63(1988)年4月 ※平成24年度から市直営
入場者数 4,049,446人(平成29年3月末現在)
資料数 収蔵資料 約16,000点(内 常設展示資料約1,000点)

 

ユネスコ世界記憶遺産登録を目指して

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ユネスコ世界記憶遺産登録を目指して

003 第2次世界大戦の終結後、軍人と一般人をあわせ、660万人以上といわれる日本人が海外に残されていました。この人たちの速やかな帰国を実現するため、国の事業として、軍港だった舞鶴をはじめ、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司を引揚港に指定。このうち舞鶴は、昭和25年以降は、国内唯一の引揚港として昭和33年9月7日の最終船まで、実に13年間にわたり、約66万人の引揚者と1万6,269柱の遺骨を受け入れました。
また、捕虜となりシベリアで抑留された方の多くは、重労働や寒さ、飢えなど筆舌に尽くしがたい労苦の末、舞鶴へ引き揚げられています。引揚記念館に展示されている資料には、当時の市長名で引揚者を迎えるにあたって、市民向けに引揚者を温かく迎えようとの文章が残されています。歓迎や慰問、差し入れなどまちぐるみで迎えた市民の姿に、舞鶴から全国へ帰宅された引揚者から後々まで感謝の言葉が寄せられました。

 

引揚記念館

memo 昭和60年に開催された「海外引揚40周年記念 引揚港まいづるを偲ぶ全国の集い」の開催をきっかけに、舞鶴に引き揚げを記念する拠点をとの気運を受けて、市が建設。市内外から7,000万円を超える寄付と関係する品々が寄せられ、昭和63年4月に開館しました。衣類や生活用品、手紙など当時の貴重な資料や体験者の記憶で描かれた絵画など現在約1万6,000点を所蔵。来年で開館30周年を迎えます。
時代とともに戦争を知らない世代も増加し、引き揚げの史実は過去の出来事として年々薄れつつあります。市では、昨年度から市内全小学6年生が来館する社会学習を開始。また、貴重な所蔵品を後世に確実に継承し、次世代に平和の尊さを強力に発信するための創造的事業を展開する施設となるよう、学芸員も配置し、24年度から市直営となりました。

 

世界記憶遺産とは

 世界記憶遺産は、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の三大遺産事業(ほかには「世界遺産」「無形文化遺産」)の一つで、世界の重要な記憶遺産の保護と振興を目的に1992年から開始されました。
文書や書物、楽譜、絵画、映画などの記録史料が対象となり、現在、世界で348件が登録されています。主なものには、「アンネ・フランクの日記」「ベートーベンの手書きの楽譜」などがあり、国内では、福岡県田川市が申請した筑豊の炭鉱記録画など697点が平成23年5月に国内第1号として登録されています。

 

選定基準は

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主な選定基準は次のとおりです。
  • 真正性 …… 記憶遺産の本質や出所(複写・模写・偽造品でないか)が確認されていること。
  • 世界的な重要性 …… 他に代替えができないもので、その損失や悪化が人類の遺産にとって損害となるもの。一定期間にわたり、または世界の特定の文化圏において、多大な影響を与えたもの。歴史上、プラスまたはマイナスの影響力を与えたものでなければならないこと。
などで、2年に1回、各国から申請された資料などを選考し、登録が決定されます。申請できるのは、1つの国につき2件までとなっています。登録されると、資料の内容などが数か国語に翻訳され、さまざまな機会に、世界に向けて発信されるほか、資料の保存促進に関する助言や支援などがなされます。