市民の皆さんに「舞鶴引き揚げの日」を知っていただくためのきっかけづくりとして、舞鶴市役所ロビーにおいて特別展示を行っています!舞鶴市役所1階ロビーにお立ち寄りの際は、ぜひご覧ください。
〇展示期間
令和5年9月7日(木)~10月6日(金)
〇場所
市役所本庁1階ロビー
市民の皆さんに「舞鶴引き揚げの日」を知っていただくためのきっかけづくりとして、舞鶴市役所ロビーにおいて特別展示を行っています!舞鶴市役所1階ロビーにお立ち寄りの際は、ぜひご覧ください。
〇展示期間
令和5年9月7日(木)~10月6日(金)
〇場所
市役所本庁1階ロビー
本展では、当館が所蔵する回想記録絵画において最も多い242点の作品を遺されたシベリア抑留体験者・吉田勇氏の作品を通して、厳しい抑留の様子をお伝えするとともに、過酷な環境下の中にも労働の合間には心休まる瞬間があったことを紹介します。
◇展示期間 令和5年9月2日(土)~ 令和5年11月5日(日)
※展示期間中の休館日:毎週水曜日
◇場 所 舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室
(企画展は無料。別途入館料が必要です)
◇展示内容
シベリア抑留では過酷な環境下においても、労働と労働の合間の休息時間、ソ連の人びととの交流など、そうした時には緊張感や不安感から解放され心休まる瞬間があったことはあまり知られていません。
どのような環境下においても人が生きる上で精神的な支えや安寧がとても大切であることが収蔵絵画を通じてお伝えできればと思います。
◇展示資料
【総点数 19点】
・素描 15点 ・油彩 3点 ・着彩 1点
❖ 吉田 勇 氏 略歴 ❖
大正12年(1923)12月 奈良県大和高田市生まれ 昭和19年(1944)10月 現役入隊後、満洲へ渡る 昭和20年(1945)終戦後、ウラジオストックの北約100㎞に位置する町 ヴォロシーロフ(現 ウスリースク)などに抑留される 昭和22年(1947)7月 英彦丸で舞鶴に帰還。復員(帰還)後は奈良県内 米穀商や映画館経営などをおこなう 昭和62年(1987)吉田勇氏より回想記録画5点を舞鶴市に寄贈 平成12年(2000)6月14日 逝去 76歳 平成25年(2013)5月20日 ご家族より回想記録画237点を寄贈 |
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『天幕張り』
制作 1988年 素描 ウラジオストックから帰国してもらうが、婦女子を先行させるとので、君たちはここで待機していてもらうということで、連れてこられたルイチキという大平原の真只中で仮の宿舎としての天幕はりを各分隊毎にすることになった。我々は、帰国までもうしばらくのことがと信じていたので分隊競いあって、天幕はりに従事したものであった。 昭和20年9月初旬 画集「一兵士のダモイへの道」より |
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『収容所見物のソ連人』 制作 1984年 素描 ウォロシロフ収容所の頃は作業より帰所し夕食までの短時間にソ連人によくタバコをせびりに行ったものである。中略〉そのごろのソ連人は満州より略奪してきた背広を着用しており、襟元を裏返しにすれば日本人名が見える。〈中略〉中には私らの眼から見れば余りにもトンチンカンな改装もあり笑ったものだ。 昭和21年5月頃 画集「一兵士のダモイへの道」より |
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『火打石』 制作 1984年 素描 ソ連労働者と一緒になり作業中の休憩のとき、ソ連人よりタバコを分けて貰った。火をつけるのはどうするかと見ていると原始的な火打石即ちロシア式ライターを巧みに使うのには感心した。あの時のマホルカの味は実にうまかった。 昭和22年5月頃 画集「一兵士のダモイへの道」より |
![]() チラシ表面PDF→こちら |
![]() チラシ裏面PDF→こちら |
終戦記念日を迎える8月は、夏休み期間中であり、子どもから大人まで多世代で楽しんで学べるイベントなどを開催いたします。シベリア抑留や引き揚げの史実を通して平和の尊さについて考えていただくきっかけになる1日です!開館35周年の節目を迎えた今年は、市民や市民団体の皆さんと協働して内容盛りだくさんで実施します。皆様のご来館をおまちしております。
8月11日(金・祝)開催
学生語り部とふれあいながら、引き揚げや抑留を知ってもらうきっかけとして実施します。夏休みの自由研究のヒントになるかもしれませんね!
実施日時 令和5年8月11日(金・祝) 15時30分~16時30分
対象者 舞鶴市内の小学4~6年生 30人(先着順)
内 容 「引き揚げと舞鶴のかかわり」のお話
・学生語り部と館内めぐり
(5カ所のチェックポイントを回りながら館内を見学)など
参加費 無料※引き揚げを知ろうスペシャルデーのため、保護者を含め入館料は不要
募集締切 8月8日(火)
申込方法 舞鶴引揚記念館へ
電話(0773-68-0836)かFAX(0773-68-0370)
または Logoフォームからのいずれかで
※申込時に「氏名、住所、電話番号、学校名、学年、同伴者の有無(人数)」をお伝えください
その他 ・参加者にはオリジナルグッズを差し上げます
・保護者席も用意しています
普段は土日祝日限定で人気の館内語り部ツアーを期間中、毎日実施します
期 間 令和5年8月11日(金・祝)~20日(日)
時 間 11時~、13時30分~ 毎日2回
所要時間 約30分 ※希望者には延長あり
実 施 NPO法人舞鶴・引揚語りの会
料 金 無料。ただし入館料は必要です(11日(金・祝)は、イベントのため無料)
その他 ・事前申し込みは不要。当日お越しの際に受付を行います。(15分前~)
舞鶴市では、忘れてはならない引き揚げとシベリア抑留の史実を後世に継承する事業として、展示キャラバン(全国巡回展)を平成28年度から開催しております。今年度は、平和祈念展示資料館(総務省委託)との合同で開催することになりました。
世界的にも類を見ない引揚事業及びシベリア抑留の資料を展示する舞鶴引揚記念館と平和祈念展示資料館が連携協力し、薄れゆく引き揚げの歴史と平和の願いを国内外に発信していきます。
また、昨年末に公開された映画『ラーゲリより愛を込めて』に描かれている、シベリア抑留からの生還者は舞鶴に上陸を果たしており、舞鶴とも関係の深い史実ですので、ぜひ足をお運びください。
◆展示内容
第二次世界大戦の終結に伴い、海外に残された多くの軍人、民間人を帰国させるために開設された引揚援護局や、引揚港に指定された舞鶴市が、海外からの引揚者を受け入れた史実について、解説パネルや、実物 資料等で紹介します。
◆開催会場
東京シティアイ【イベントスペース】
東京都千代田区丸の内2-7-2 JPタワー・KITTE 地下1階
KITTE 地下1階 東京シティアイパフォーマンスゾーン
東京都千代田区丸の内2丁目7−2
◆開催日時
令和5年2月22日(水)から3月5日(日)まで(12日間)
10時から20時まで(2/22は12時から、日曜日、祝日は18時30分まで)
主催 京都府舞鶴市、舞鶴市世界記憶遺産保存活用推進委員会
共催 舞鶴引揚記念館、平和祈念展示資料館
後援 東京都教育委員会
◆チラシ(表)PDFはこちら
◆チラシ(裏)PDFはこちら
第4回企画展「うるまの島の引き揚げ~もう一つの引き揚げ~」を
令和5年1月21日(土)~令和5年4月16日(日)の日程で開催します。
「うるま」とは沖縄の古語で「美しい」などを指す言葉です。
第二次大戦後、うるま島だった沖縄は激しい沖縄戦によって
荒廃した状況となりました。
戦後、沖縄は日本の施政権下から切り離され、アメリカ軍の施政権のもとで
日本とは違った形で戦後引き揚げがおこなわれました。
日本本土や外地にいた沖縄県出身者の引き揚げがアメリア軍施政権下で
どのようにおこなわれたのか「うるまの島の引き揚げ」について
展示をおこないます。
12月9日(金)より、シベリア抑留を題材とした映画『ラーゲリより愛を込めて』が全国公開されます。当館では、劇中で使用された衣装や小道具など映画に関する展示をおこなっています。この作品に描かれている、シベリア抑留からの生還者は舞鶴に上陸を果たしており、舞鶴とも関係の深い史実です。
◆展示期間
令和5年1月15日(日)まで
※展示期間中の休館日:12月15日(木)、12月29日(木)~1月1日(日)
◆映画『ラーゲリより愛を込めて』
この映画では、主人公と妻が運命に翻弄されながらも、再会を願い続けた、
二人の11年に及ぶ「愛の実話」が描かれています。
◆場所
舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室・常設展示室・受付前ロビー
今回の企画展では、令和3年度に新たに収蔵した資料の紹介展示をおこないます。戦後77年が経過し抑留体験者や引き揚げ体験者から直接資料の寄贈がなくなり、子供の代だけでなく、孫の代からの寄贈も増えてきました。祖父母の体験の記憶は孫の代に受け継がれていく過渡期にあるようです。その過渡期の様相を今回の展示のサブタイトルとしました。体験者の記憶を伝えることの大切さを感じて頂ければと思います。
◆展示期間
令和4年10月22日(土)~ 令和5年1月15日(日)
※展示期間中の休館日:11月17日(木)、12月15日(木)
12月29日(木)~1月1日(日)
◆場所
舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室 (企画展は無料。別途入館料が必要です)
◆展示概要
令和3年度に新たに収蔵した資料の紹介展示をおこないます。
◆展示資料 総点数 125点
・帰還直後に書いた体験手記
・抑留中に作成した住所録
・抑留中に自作したスプーン
・抑留体験を描いた回想記録画
・引揚証明書
平成30年度・・・36件148点
◆主な展示資料◆
【帰還直後に書かれたシベリア抑留の体験手記】サイズ:縦24.7㎝×横17.6㎝ 帰還直後の昭和22年(1947)に寄贈者の兄が記した抑留体験手記。全50ページにわたって記されている手記の冒頭には「シベリヤ タイシェット19Kラーゲルにて祖国をる父に宛てし書簡」と記されているが、はがきは戦時中に中国から親族の女性に宛てたもので戦友の姿を描いていることが、はがきの表面に記されている。はがきの表面に「よく描けた」と記されており、絵の腕前によほど自信があったことが伺える。寄贈者によると抑留中に病気に罹患したため、日本へ帰還した3年後に逝去した。
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【抑留中に自作したスプーン】サイズ:長さ24.3㎝
寄贈者の父がモンゴルに抑留され、その際に手作りしたとみられるもの。帰還後、教員をしていたため生徒が家に訪ねて来ると見せていたという。 ※モンゴルには1万2千人が抑留された。 |
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【抑留中に使用したスプーン】サイズ:長さ19.5㎝
抑留中に使用したもので、おそらく自作したものと考えられる。寄贈者の祖父は戦争の話をすることをとても嫌い抑留中のことも何も話さずに亡くなった。 |
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【水筒】サイズ:高さ21.5㎝×横14㎝
陸軍将校用の水筒で、本来水筒にはカバーがついている。寄贈者の祖父が抑留中にも使用していたとみられる。
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【回想記録画】
サイズ:縦47㎝×横68.4㎝ シベリア抑留体験者だった寄贈者の祖父が描いた絵画。絵を描いていると抑留中に亡くなった仲間のことを思い出して手を止めることがあったという。
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チラシPDF☛こちら
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チラシPDF☛こちら
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今回の企画絵画展「抑留者が見たシベリア」では、つらく苦しい抑留生活の中で、抑留者の心を癒した景色や現地の人々との交流を描いた数少ない絵画の展示をおこないます。当館が収蔵するシベリア抑留体験者が描いた約1300点の回想記録画の中には、つらく苦しい体験の絵画が多くありますが、シベリアの美しい自然や街並み、人々の交流を通して、多面的な引き揚げやシベリア抑留について感じていただければと思います。
🔷展示期間
令和4年4月23日(土)~ 令和4年7月10日(日)
※展示期間中の休館日:5月19日(木)、6月16日(木)
展示室 (企画展は無料。別途入館料が必要です)
🔷主な展示資料
総点数 33点
・油彩画 21点
・水彩画 11点
・抑留中に使用された絵具セット1点
🔷スケッチブック(ユネスコ世界記憶遺産登録資料)
舞鶴引揚記念館令和3年度第3回企画展「二人の母 岸壁に立つ女性たち」を10月30日(土)から引揚港として、いくつもの喜びや悲しみを見届けた舞鶴港の様子を「2人の母」を中心に紹介します。
◆展示期間
令和3年10月30日(土)~ 令和4年1月16日(日)
※展示期間中の休館日:11月18日(木)12月16日(木)
12月29日(水)~1月1日(土)
◆場所
舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室 (企画展は無料。別途入館料が必要です)
◆展示概要
第二次世界大戦後、舞鶴港では、シベリアや満洲などからの引揚者を乗せ海の向こうからやってくる引揚船を桟橋や岸壁に立ち、多くの人々が待ち望みました。その中の、行方が分からない息子の帰りを待つ女性たちの姿は、いつしか「岸壁の母」とも呼ばれるようになりました。その後、映画や歌にもなり端野いせさんはそのモデルと言われています。一方で、13年もの間、心身ともに傷ついて帰ってきた引揚者たちを温かく出迎えた地元婦人会のリーダー的な存在として活動された田端ハナさんは、その後も多くの引揚者と交流を続け、「引揚の母」と慕われました。本企画展では、いくつもの再会や悲しみがあった引揚港舞鶴の岸壁にたたずんだ「二人の母」を中心に、夫や息子の帰りを待つ家族や舞鶴市民のおもてなしの様子を紹介します。
◆展示資料
総点数 61点
・端野いせ関連資料 26点
・田端ハナ関連資料 11点
・北田家関連資料 5点
・小谷ちゑ写真 6点
・舞鶴での引き揚げ写真 13点
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チラシ表 | チラシ裏 |
「岸壁の母」端野いせ
太平洋戦争終結後、戦地から帰らぬ夫や息子の無事の帰国を信じて、多くの女性が引揚船の近くの岸壁に立ち続け、その姿は「岸壁の妻」「岸壁の母」と呼ばれるようになりました。端野いせ氏は、満洲へ出征した息子・新二氏の無事の帰還を信じて、数日かけて東京から舞鶴の港へ何度も足を運んだ一人です。昭和29年(1954)に発表された歌謡曲「岸壁の母」はいせ氏がモデルといわれ、戦争が終わっても帰らぬ息子の無事を信じて港の岸壁で待ち続けた母の心情を歌った歌詞は当時の人々の心を打ちました。 |
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端野いせ氏の若い頃から晩年までの写真が綴じられたアルバム。写真は、日常生活の中で撮られたものや、「岸壁の母」としてテレビに出演し、インタビューを受けている様子などがあります。昭和29年(1954)に発表された歌謡曲「岸壁の母」を歌った歌手の菊池章子氏と一緒に写る写真もあることから、交流があった事がうかがえます。 |
端野いせ氏アルバムより 「赤ん坊の新二さんを膝に乗せているいせ氏」 |
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昭和51年(1976)に端野いせ氏が息子・新二氏を思い書いた手記。戦後から30年余が経過しても新二氏の無事を願い、帰りを待ち続けるいせ氏の心情が書かれています。 |
いせ氏が息子・新二氏を思い書いた手記 |
「引揚の母」田端ハナ
田端ハナ氏は、昭和20年(1945)に舞鶴での引き揚げが始まってから昭和33年(1958)の最終船まで多くの引揚者を出迎えた人物。田端ハナ氏は引揚船が着くたびに港へ向かい、お茶やふかした芋などを振るまったり、小舟に乗って引揚船の近くまで出迎え、「おかえりなさい」「ご苦労様でした」と言葉をかけ、引揚者たちを温かく迎えました。引き揚げが終了した後は、引き揚げの史実を後世へ伝えるため、引揚記念公園の建設や、舞鶴引揚記念館の設立に貢献するなど、生涯にわたって引き揚げに関わりました。 |
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平成6年に復元された引揚桟橋の竣工式の際には、田端ハナ氏が参加者へ向け桟橋復元の喜びを語りました。式典では全国から約800人の引揚者やその親族たちが参加し、テープカット終了後には引揚体験者達が船から桟橋へ降り立ち、家族と再会を果たす様子が再現されました。 |
復元桟橋の完成式典でスピーチをする田端ハナ氏 (平成6年5月撮影) |
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平引揚桟橋完成式典でのテープカットの様子
(平成6年5月撮影) |
体験者が船から復元桟橋へ降り立ち、
当時の引き揚げの様子を再現 (平成6年5月撮影) |
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平成元年(1989)に発行された冊子。「引揚の母」である田端ハナ氏が、引き揚げ当時の出迎えの様子や引揚者たちに対する思いを綴ったものです。 |
書籍「平の引揚桟橋は語る」 |
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田端ハナ氏から京都府知事へあてられた依頼文。「あゝ母なる国の碑」の建立から13年が経ち、引揚者たちの労苦や、歓迎に奉仕した舞鶴の姿を記録し、後世へ伝える冊子「あゝ母なる国-引揚記録-」を刊行するにあたり、当時舞鶴引揚援護局長を併任していた京都府知事・蜷川虎三氏に「発刊に寄せる」言葉をいただきたいという内容が書かれています。 |
京都府知事・蜷川虎三氏に宛てた依頼文 |
「岸壁の妻」小谷ちえ
小谷ちゑ氏は、満洲で別れた消息不明の夫を探し、幼い息子二人を連れてたびたび舞鶴へ足を運びました。写真はアサヒグラフ編集部が撮影したもので、帰還者に話を伺う様子や、引揚援護局で夫の名前を探している様子などが写されています。 |
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夫の引き揚げを待つちゑ氏と子供たち | 引揚援護局内で夫の名前を探すちゑ氏 |
北田家の記録
終戦後、シベリアへ強制連行され、11年4ヶ月もの間、シベリアで過酷な抑留生活を過ごした北田利氏の帰りを待ち続けた妻・はま氏と娘たち。日本で帰りを待つはま氏が書いていた日記には、シベリアから葉書が届き家族3人で喜んだり、利氏の無事の帰国を願う様子が書かれ、遠く離れた抑留地と日本の間でお互いに家族を思いやる絆の深さを伺うことができます。 |
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アルバムより「北田はま氏と娘たち」
(世界記憶遺産登録資料) |
日記「妻の記録」
(世界記憶遺産登録資料) |
※北田氏のアルバムと日記については10月30日(土)~11月12日(金)、2022年1月3日(月)~1月16日(日)の期間中は実物を展示。 |
戦後の混乱の中、海外から引き揚げてきた人々を舞鶴の小・中学校のこどもたちは「おかえりなさい」「ごくろうさまでした」と手や旗を振ってお出迎えをしました。また、引揚援護局へ出向いて歌やお遊戯などの慰問も行いました。こどもたちの愛らしく一生懸命な姿は故郷へ思いをはせ、新たな一歩を踏み出そうとしている引揚者の心を和ませました。本企画展では、引揚援護局内の様子やこどもたちの慰問、引揚直後の人々などを当時の絵画や手記、写真などの資料でご紹介します。
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【展示期間】
令和3年7月31日(土)~ 令和3年 10月24日(日)
※展示期間中の休館日:9月16日(木)・10月21日 (木)
【場所】
舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室 (企画展は無料。別途入館料が必要です)
【展示資料 総点数 39点】
【主な展示資料】
・こどもの慰問等の写真パネル
舞鶴市内の小中学校の児童・生徒による慰問の様子の写真 児童たちは、学校が終わってからトラックやバスに乗せられて引揚援護局にて歌や踊り、お遊戯を披露した。 |
・感謝状(文部大臣から)
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昭和29年(1954)大浦中学校に対して、当時の文部大臣 大達茂雄から引揚邦人に対しておこなった引揚者のお迎えや歌、踊りの慰問といった数々の努力に対して贈られた感謝状。市内の他の学校では感謝状が贈られた記録は残るが、現存はしていない。 |
・当時の公文書やメモ
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昭和28年(1953)に中国地方からの引揚者が入港するのに伴い、市を挙げて引揚者の歓迎会の催しが計画された。この時の引揚者の中には多くの就学年齢の子供がいたため、市内の小中学校から歓迎の慰問が計画され、児童や教諭も参加した。 |
・引揚者を迎える歌(若浦中学校) DVDなど
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若浦中学校の前身である大浦中学校では、引揚船が入港する度にお迎えに繰り出し、引揚者を迎える歌を歌って歓迎した。現在の若浦中学校では、その歌を復元して令和元年から平和祈念式典などで披露している。 |
・援護局を描いた絵画
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舞鶴港 羽根田光雄 氏 |
DDT消毒 羽根田光雄 氏 |
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大浴場 羽根田光雄 氏 |
舞鶴での食事 羽根田光雄 氏 |
羽根田光雄 氏プロフィール 明治43年(1910) 宮城県に生まれる 昭和10年(1935) 東京石川島造船所(現石川島播磨重工)入社 昭和20年(1945) 満州石川島重工出向する。8月に現地招集後、ソ連に抑留 昭和22年(1947) 舞鶴に帰国、石川島重工に復帰 平成10年(1998) 逝去 平成27年(2015) 引揚記念館に寄贈した絵画50点がユネスコ世界記憶遺産に登録 |