2月24日は最初の「英彦丸」と10回目の「興安丸」の入港日

~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~
 昭和22年(1947年)2月24日は、大連から「英彦丸」が2,894人の引揚者を乗せて舞鶴港に入港しています。また、8年後の昭和30年(1955年)の同日には中国、天津の海側、塘沽から949人の引揚者を乗せた「興安丸」が舞鶴港に入港しています。「英彦丸」は昭和22年のこの日が初めての舞鶴港への入港でしたが、「興安丸」は昭和28年3月23日の初入港から数えて10回目の舞鶴港でした。
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 ご両親や祖父母が舞鶴に引き揚げて来られた方という方が日本中に沢山おられます。写真を見て思い出されるかもしれません。FBをご覧いただき、シェア頂けると助かります。

 

【1947年の2月23日「永徳丸」が3,071人の命を運んできました】

~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~
 74年前、1947年(昭和22年)2月23日、「永徳丸」が大連から3,071人の引揚者を乗せて舞鶴港に入港しました。「永徳丸」は、このあと15回にわたってナホトカからの引揚者を舞鶴に連れて帰ってきてくれています。「永徳丸」の最後の舞鶴港への入港記録は、2年後、1949年(昭和24年)の11月4日で、「永徳丸」は最初の大連からの引揚者から合わせて総勢35,113人の命を運んで、日本に帰って来てくれたことになります。
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【1947年2月20日には「栄豊丸」が】

~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~
 1947年2月20日、大連から3,469人の引揚者を乗せた「栄豊丸」が舞鶴港に入港しました。「栄豊丸」は、この時初めて舞鶴港に入港し、その後、1949年12月1日まで引揚船として活躍します。最初は大連からでしたが、以降はすべてナホトカから。舞鶴港へ14回入港、合計27,015人の引揚者を乗せて来ました。
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【75年前と74年前の2月18日】~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~

~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~
 「2月18日」 75年前、昭和21年(1946年)のこの日は、沖縄から6人の引揚者を乗せて「長鯨」が舞鶴港に入港、翌年、昭和22年(1947年)には、大連から「大瑞丸」が3,202人を乗せて入港しており、2月18日は、合計3,208人の引揚者の引揚記念日となっています。
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英語版デジタル紙芝居制作中(東舞鶴高校共働事業)

【地元・東舞鶴高校生徒の活躍】

 東舞鶴高校と舞鶴引揚記念館では現在、英語版のデジタル紙芝居の制作を進めており、2月9日に英語シナリオの録音作業を行いました!「引き揚げの史実を世界へ、未来へ」発信する当館の大切な取り組みの一つで、完成が楽しみです。
 完成後は当館YouTubeチャンネルでお披露目しますので、お楽しみに。

【参加してくれた東舞鶴高校の皆さん】

 

【74年前の2月13日~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~】

 ~引揚船と共に振り返るシベリア抑留~
 74年前の今日。終戦から1年半、昭和22年(1947年)の2月13日。中国、大連から2隻の引揚船「信濃丸」と「辰日丸」が舞鶴港へ入港しました。この日は「信濃丸」に3,052人、「辰日丸」に3,549人の方が乗船されており、合計6,601人が引き揚げてこられました。
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舞鶴引揚記念館 令和2年度第4回企画展『新収蔵品展~紡ぐ記憶~』開催について

舞鶴引揚記念館には、戦時下、シベリア抑留、引き揚げに関する約1万6千点もの資料が収蔵されています。今回の企画展では、令和元年度に新たに収蔵された38件131点の資料を展示します。戦争や引き揚げの記憶が風化する中で、全国各地から寄せられた資料から戦争の惨禍を現在に伝える一つ一つの「記憶」を次世代へとつなぎ、平和な未来を「紡ぐ」きっかけの一つとなれば幸いです。

 

🔶展示目的🔶

昨年度(令和元年度)に収蔵したシベリア抑留および引き揚げに関連する新たな資料を、未来へ「紡ぐ記憶」として紹介するとともに、引き揚げの史実を継承し平和の尊さを発信する資料の提供協力を呼びかける展示です。

展示期間 令和3年1月22日(金)~ 令和3年4月11日(日)

会館時間 午前9時~午後5時(最終入館は午後4時30分まで)

     ※展示期間中の休館日:2月18日(木)3月18日(木)

会  場 所舞鶴引揚記念館 企画絵画展示室

 (企画展は無料。別途入館料が必要です)

 

PDF⇒こちら

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展示資料 総点数 38件 131点

内訳:令和元年度寄贈資料( 36件 129点)

令和元年度資料画像等の貸し出しによる書籍等の成果品( 2件 2点)

<参考> 年度別寄贈点数

令和元年度・・・52件164点

平成30年度・・・36件148点

平成29年度・・・47件141点

平成28年度・・・51件212点

 

🔶資料の概要🔶

・作詞家・藤田まさと氏直筆の「岸壁の母」の歌詞

・脚絆・ドイツ兵と交換した帽子・回想記録画・俘虜用郵便葉書

・抑留中に着用していた防寒着・引揚証明書

・旧海軍関係ソ連、北鮮、中京地区未帰還者名簿 ほか

 

展示資料※一部

 

作詞家藤田まさと氏直筆の「岸壁の母」歌詞

 

寄贈者:今村志津子(いまむらしづこ)氏

続 柄:

作詞家藤田まさと氏について

明治41年5月12日生まれ、静岡県出身の作詞家。代表曲には「旅笠道中」、「明治一代女」、「岸壁の母」などがある。そのうちの「岸壁の母」は昭和29年に全国的にヒットした歌謡曲で、戦争が終わっても帰らぬ息子の無事を信じて港の岸壁で待ち続けた母の心情を歌った歌詞は当時の人々の心を打った。

資料内容

藤田まさと氏は歌謡曲「岸壁の母」の作詞者。今村家を新築した昭和52年(1977)12月末に新築を記念して寄贈者の伯父にあたる、藤田まさと氏にお願いして書いてもらったもの。昭和53年(1978)1月5日に東京に住んでいる藤田氏の家を訪問し、その場で書いてもらったという。

回想記録画


寄贈者:高田照夫(たかだてるお)氏

続 柄:次男

資料内容

寄贈者の父が、同じシベリア抑留体験者の友人からもらった絵画。帰国後に抑留中の体験を描いたもので、裏に「この長閑そうに見える絵は牧野君と共にシベリア抑留の思出である 高田英夫」と記されていることから、父と友人の抑留中に共有した思い出の一場面と考えられる。

俘虜用郵便葉書

寄贈者:井上則孝(いのうえのりたか)氏

続 柄:長男

資料内容

寄贈者の父から日本の家族へ送られた俘虜用郵便葉書。葉書には収容所での生活や、パンやおかゆとともにスープや漬物、数の子といったおかずも配給され、時には牛乳が出ることもあるなど収容所での食糧事情が詳しく書かれている。

※俘虜用郵便葉書とは抑留された人々と日本の家族がやり取りできる唯一の通信手段。

防寒服

寄贈者:小林恵子(こばやしけいこ)氏

抑留体験者だった父・小林新一氏の遺品

続 柄:長女

抑留地:ウテンデ地区

 

資料内容

寄贈者の父がシベリア抑留中、ウテンデ地区収容所建築作業時に着用していた防寒服。小林氏は昭和20年(1945)から23年(1948)まで抑留生活を送る。シベリアでは、ノミ、シラミが襟元などにたくさんついていたという。

舞鶴引揚記念館「英語」案内ガイド育成研修会の延期について

 

1月16日(土)から開催予定でありました「英語」案内ガイド育成研修会につきましては、令和3年1月13日付で京都府全域に発出されました新型コロナウィルス感染症に関する国の緊急事態宣言及び本市の対策本部の方針を受け、受講者の安全と感染拡大の防止の観点から、延期することに決定しましたのでお知らせします。

なお、延期後の研修会日程につきましては、今後の国・京都府等の動向や感染状況をみながら計画することとし、日程が決まりましたらお知らせいたします。