抑留から交流へ! ~ウズベキスタン共和国との交流物語①~

舞鶴市は東京オリンピックに参加するウズベキスタンのホストタウンとして、スポーツや文化などの様々な分野で交流を続けてきています。

交流のきっかけとなったのは、平成28年1月に、日本人抑留者資料館長の方が舞鶴に来て頂いたことでした。不思議な縁で結ばれた、ウズベキスタンと私たちの物語をご紹介させていただきます。

ウズベキスタンってどんな国?

ウズベキスタンは日本からおよそ 6,400㎞離れた中央アジアに 位置しており、面積は日本のおよそ1.2倍、人口は約3,000万人、1991年にソビエト連邦(以降、 ソ連)崩壊に伴い独立した国で、世界に2つしかない「二重内陸国」です。海へと出るためには国を2つ越える 必要があります。(もう一つはリヒテ ンシュタイン)

そんな、ウズベキスタンには「日本人のようになりなさい」という言葉が語り継がれています。なぜ日本から遠く離れた縁もゆかりもないような国で、「日 本人のようになりなさい」という言葉が語り継がれているのでしょうか。 親日意識は「シベリア抑留と海外引揚」から。その理由は「シベリア抑留と海外引揚」にありました。  

親日意識は「シベリア抑留と海外引揚」から

今から約76年前、第2次世界大戦末期のことです。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏しましたが、8月23日までソ連軍の侵攻は続き、ソ連は、その戦闘の中で捕虜となった人々を各地に抑留し、強制労働に従事させました。「シベリア抑留」です。

抑留者は、シベリアや中央アジアなど各地に送られ、森林伐採や道路整 備、建物建築といった様々な重労働を課せられました。 抑留地の一つであるウズベキスタンには約25,000 人が送られました。 ウズベキスタンは雨が少なく乾燥し、 夏は最高気温が40度、冬は最低気温 がマイナス20度にもなる、大変厳しい環境の国で、抑留者は水力発電所や学 校などの建設に従事しました。

現在で もオペラやバレエの上演に使用され、 ウズベキスタンの紙幣にも描かれているほど有名な「ナボイ劇場」も1945~46年にかけて457人の抑留者によって建造されました。

ナボイ劇場を建設した抑留者たちは、「第4ラーゲル」と呼ばれる収容所に収容されていましたが、近くに住んでいた人によると「日本人抑留者は朝、整然と隊列を組んで出て、労働が終わった夕方にはまた整然と隊列を組んで帰ってきていた。朝、出かけるときはいつも決まった時間に通るので、彼らの歩く下駄の音を目覚まし時計代わりにしていた人もいるほどだった」 またある人は「彼らの食事は1日300グラムの黒パンと薄いスープだけだった。その黒パンですら労働成績が悪いと減らされることがあったのだとか。ある時、大変な労働でおなかがすいているだろうからと、収容所の柵の間からパンと果物を差し入れたところ、数日後、同じ場所に手作りの木のおもちゃが置かれていた。そのことを母親に伝えると母親にこう言われた。『日本人は勤勉で礼儀正しい。物を作るのも上手いうえに、恩を忘れない人だ。あなたも日本人のようになりなさい。』と。

また、ウズベキスタンの前大統領である故カリモフ氏は、生前こんなことを仰っていたそうです。「子どもの頃、母親に連れられて、毎週末日本人 の収容所に行った。そして、そのたびに同じことを言われた。『息子よ、ごらん、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。3 人が見ていなくても働く。おまえも大きくなったら、日本人と同じように人が見ていなくても働く人間に必ずなりなさい。』そんな言いつけを守って育ち、今では大統領になれた。」 と。

ナボイ劇場の建設に携わった日本人抑留者457人の内、2人が事故などによって現地で亡くなったそうです。