抑留から交流へ! ~ウズベキスタン共和国との交流物語②~

舞鶴市は東京オリンピックに参加するウズベキスタンのホストタウンとして、スポーツや文化などの様々な分野で交流を続けてきています。

引き揚げが縁で結ばれた、ウズベキスタンと私たちの物語をご紹介させていただきます。

舞鶴港への引き揚げ

第二次世界大戦が終わった後、満州 (現・中国東北部)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されており、これらの方々の帰国事業 “引き揚げ”が開始され ました。呉をはじめ順次18港の引揚港が全国に次々と設置され、舞鶴もその役割を担うこととなり、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となりました。

ナボイ劇場を建設した455人の日本人抑留者のほとんどが、舞鶴港に引き揚げてこられました。船から見える緑の山々や出迎えの着物姿の日本人を見て涙を流されたそうです。「第4ラーゲル」の隊長 であった永田行夫さん(大尉)も舞鶴港に引き揚げてこられました。

永田さんは、日本に帰国後も第4ラーゲルの抑留者と連絡が取れるように、名簿を作成しようとされました。普通なら収容所で紙に名前、住所を書いて持って帰れば良いのですが、この時代は違いました。もしその名簿がソ連兵に見つかれば、廃棄されるか、最悪の場合何かの暗号か何かに間違えられ、スパイとして再び収容所送りになるかもしれません。永田さんは、455名の名前・住所・番地をすべて暗記して日本に帰国。家族と会うと暗記した名前を忘れてしまうのではと考えた永田さんは、一刻も早く、自宅に帰りたい気持ちを抑えて、上陸の後、舞鶴に宿泊し、名簿として紙に書き出されたそうです。

 

タシケント第4ラーゲル会結成

その名簿をもとに「タシケント第4ラーゲル会」が結成され、昭和24年から平成21年まで61回にわたって毎年1回交流会が開かれ、平成3年には引揚記念館に「第4ラーゲル会」の桜の記念植樹を残していただいています。

また、第4ラーゲル会のメンバーの新家苞(にいの み しげる)さんからは、抑留当時の衣服等の資料やウズベ キスタンへの墓参の際に入手されたナボイ劇場のれんがなど、貴重な資料をご寄贈いただきました。

れんがは現在、赤れんが博物館の「日本人とナボイ劇場」のコーナーに展示してあります。 しかし、今では永田さんを始めとした「第4ラーゲル会」の方は大部分がお亡くなりになっておられ、史実をお伺いできる方も数人となっておられます。

 抑留者が残した名誉

1966年、ウズベキスタンの首都タシケントは約70%の住宅や建築物が倒壊する大地震に見舞われました。大きな被害が出るなか、ナボイ劇場をはじめ日本人抑留者が建築に携わった建物の多くは地震に耐え、ほぼ無傷で立ち続け、家を失った人達の避難所として活用されるなど、 多くの人の命を救いました。

現在でもナボイ劇場はもちろん、日本人がつくった発電所や建物が現役で使われており、今でもウズベキスタンでは「地震が来たら、日本人がつくった建物に逃げろ!」と語り継がれているそうです。

このように、本来なら日本への帰国していたであろうなか、過酷な環境下での強制労働、帰国の見込みも立たない抑留という絶望的な状況の中でも、日本人抑留者たちは実直・勤勉に仕事に励み、たとえ日本に帰れなくてもウズベキスタン国民に手本とされるような行動をとり、大地震でも倒れない建物を建てることで、自分たちの名誉を残そうとしました。

また、ウズベキスタンの市民から受けた恩に対しては精一杯の感謝を伝えようとしました。 戦後、この地で強制労働に従事した抑留者一人ひとりの行動が、ウズベキスタンの人々に深い感銘を残し、日本人のイメージとなって、今の日本に対する友好的な気持ちの形成につながっています。